青春のつづき

チョロオタの独り言

だいぶ遅い回顧録

あっという間にこの日が来た。遠い先のことのようで、どうしても駄々をこねたくて。

わかっている、彼らが何か変わるわけでもない、そこに5人でいてくれることも十分にわかっている。

だけど、20年ずっとどんな時も守り続けてくれた「関ジャニ∞」というものを手放さないといけなくなったことが寂しくて、悔しくて、ただたくさんのうちの一人のファンなのに。

私たちファンにだってそう思わせてくれるくらい、大きなものだったんだと思う。

 

私の中高の生活にはエイトがいつもそこにいたし

離れていたあのころもそこにエイトはあったし

何回もみんながいなくなった時もエイトはそこにいた

いろんなことがあった数年後のコンサートで「関ジャニ∞でよかった」と言われた時どんだけ嬉しかっただろうか

 

私の友達が内くんを好きだったところから私のジャニオタ人生が始まった

狭い世界で同担拒否ばかりを生み出すという恐ろしい環境で育ったオタクは晴れて、箱推しとなり、

グループというものに固執するオタクとなった

 

 

初めて行った代々木体育館の記憶なんて正直ほぼないわけだけど、それでも好きな人たちを始めて生で会えることの嬉しさは今でも覚えている。

47ではチケットが片方しか入れなかった友人、両方入れる私たちでなんとも言えない空気感も覚えている

そしてまさかの友人が入れない公演で友人の好きなメンバーはソロ曲を歌い、さらに不穏な空気が流れた

隣で友達が横山さんに手を伸ばしてもらって、ほらほらと構われ最終的に手が届かずあの無邪気な顔した横山さんは忘れられない

一生1000人ホールの最前なんて入れないだろうな

錦戸さんの投げた花を取ろうとして後ろの人の手が伸びてきて爪が折れかかって死ぬほど痛かったのも覚えてる。

親という最大の味方をつけて、謎に東京ではなく長野のビックハットに行き続けたな

なけなしのお小遣いからの会費が辛くて、受験で一回抜けたFC、YOU&Jでしたね

少しずつ私の生活からエイトが少なくなっていった

雑誌を買うのをやめ、シングルを1枚だけ、アルバムだけ、円盤だけみたく

それでもわたしの生活の片隅にも、私の家族の片隅にもいつも関ジャニがあった

8ESTは味スタの音が漏れますのチラシを自宅に配布され、あそこにエイトがいるんだと思っていた。行きたいなとふと思った。

別の場所で知り合った友人が関ジャニを好きだと知り、一緒に連れて行ってもらったJUKE BOX

そこからまた1年に1回くらいコンサートに行くようになった

やっぱりいつ行っても関ジャニのコンサートは楽しかった

社会人になり、少し余裕ができた私はここで始めて関ジャニ∞のファンクラブに入る

それから二年後

すばるくんがグループを抜けるなんて誰が想像したんだろうか

ここで私はエイトから離れていた時間を初めて後悔した

わかっていたはずなのに、どこだって、当たり前なんてないんだと気づいた瞬間だったのかもしれない

十五祭で一年間書き続けていた週刊誌に「ざまあみろ!!!!!!!!!」と叫んだ二日後に亮ちゃんが抜けた

だけど、この一年間をみていたらもうなんか何も言えなかった、ただ寂しいだけだった

グループを残してくれた5人のことも信じたいのに、いろんなことが不安で不安で仕方なくなった

この人たちは優しいから止まることができないのかもしれないと勝手に思った

だけど私も離れることもできないわけで、大好きで、どんな時もすぐそこにいてくれたから、もう関ジャニのない生活もわからなくなってしまった

すばるくんが音楽の世界に戻ってきてライブに行って、りょうちゃんもライブ映像もみてようやく別になったのだと実感した

それから7人を同じように応援出来なくなったことが自分の中で本当に辛くて長年の曖昧な箱推しという自分の土台が崩れていくようだった

みんなが幸せになって欲しくて、みんなを応援していることは絶対に嘘ひとつないのに

5人も、すばるくんも、亮ちゃんも、内くんも

世の中でコロナが蔓延し、走り続けていた関ジャニも47半ばで止まらざるを得なくなった

そこからあんまり覚えてないけど、多分一番私が現実から逃げていた頃なんだと思う

2年が経とうとする頃に8BEATとともに関ジャニに再会する

「俺たちは関ジャニ∞でよかった」そう叫んでいた

こんなにいろんなことがあったのに、彼らはここでグループでよかったと言ってくれたんだ

わたしは全部今までのことも含めて関ジャニと共にこの先の未来も見ていきたいと思った

ここでようやく長かった曖昧な日々が晴れた気がしたし、8人を、7人を、6人を恋しく思っていても、5人の関ジャニを好きだといろんな難しいことを考えなくて良くなった

どんな時だって前に立って待っていてくれたのも、手を差し伸べてくれたのも関ジャニだった

 

 

 

そして今二十周年を迎える

関ジャニ∞としてではなくて、SUPER EIGHTとして

 

 

私はわがままなのでいまだにやっぱり寂しい悔しいは当分なくならないだろう

だけど、それはきっとこのSUPER EIGHTで進んでいくと決めた彼らも同じだと知っているから

 

 

強くなったからSUPERをつけよう

だからこの名前には今までの年月があってこその名前なんだなとみんなが話しているのをみていて思えたから

 

 

法被は来てないけど

のぼりもないけど

ここからまた新たな景色に向かって

 

 

ばいばい関ジャニ∞

よろしくね、SUPER EIGHT