青春のつづき

チョロオタの独り言

開会式を観た話

オリンピックの開会式を観た

あんなにいやだなって言ってたはずなのに当たり前のように

テレビの前で開会式をみて、フツーに感動した

 

そして

「あー、始まってよかったな」

と、そんなことを思っていた

 

オリンピックに向けて頑張っている人たちがいて

その人たちにとっては晴れの大舞台

そりゃ無事に始まって良かったに違いないよなあと

 

じゃああんなにいやだったのはなんなのか

「オリンピックのために我慢させられている」と勝手に感じてた

オリンピック「だけ」に合せて全てが考えられてると、なぜ思ったんだろう

結局わたしはオリンピックだけがずっと当たり前に決まって

でも他のエンタメもなにもかもがただただ制限だけをされていくことが

いやだったんだろうなあ・・・と思う

制限をされて何が変わっているのかがわからない

制限をされてどうなったら良しとされるかがわからない

制限をされてもその制限が中途半端に感じてしまう

制限をされて謝るのは私の好きな人たちばかり

制限をされても守れる気力もなくなっていく

落ち着いて考えれば、私だって自分のことしか考えていないよな

私が言っていたいやだなという言葉だって

オリンピックを願っている、誰かを傷つけるだろうにな

 

だけどやっぱりもっと大事にしてほしかったのだとおもう

私が好きなものも、ひとたちも、その思いも

大事にしているのかも知れないけど、それならもっとわかりやすく

凡人の私でもわかるように伝えてほしかったな

 

たくさんのものがなくなっていって、そのたびに謝っている人たちがいて

それを観ていることもいやになったし

別に誰が悪いわけじゃないだろうから、向ける怒りの矛先もなく

それを前提としてやっぱり大事なものをもっと大切に扱ってほしかったな

そしてオリンピックだって、きっともっと、大切に扱えたはずだ

もっともっと、みんなから大事にされて、応援されて、声援をあびて

有観客とか、無観客とかじゃなくて、良い言い方がわからないが。

 

やっぱたくさんの人がみて、感動して、開催できてよかったなって

まあ、手のひら返しみたいな私は結局私の大切なものを

大切にしてくれなかったなって思う人たちと同じなのかも知れないけど

 

 

言葉はちゃんと自分の考えをかみ砕いてから紡がないと

全然違うことになってしまうんだなと思う

それでも反射のようにこうやってブログを書いて、Twitterでつぶやいて

ああ、ひとつでもわたしの言葉が人を傷つけなきゃいいのにな

誰にも届かない言葉も悲しいけど